2004-04-26 第159回国会 衆議院 武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会 第9号
去る沖縄戦で最後まで指揮をとった高級参謀の八原博道氏は、戦後の反省として書かれた御本の中で、もう既に御存じかもしれませんが、おっしゃっておられることは、「中央は沖縄を見ずして、誰もそこへ行かず沖縄に決定を押し付ける」と書いております。御存じでしょうか。東京で、図面の上で、机の上で線を引き、ああ、ここかと。
去る沖縄戦で最後まで指揮をとった高級参謀の八原博道氏は、戦後の反省として書かれた御本の中で、もう既に御存じかもしれませんが、おっしゃっておられることは、「中央は沖縄を見ずして、誰もそこへ行かず沖縄に決定を押し付ける」と書いております。御存じでしょうか。東京で、図面の上で、机の上で線を引き、ああ、ここかと。
第一軍首脳は、澄田しょう四郎軍司令官等が閻錫山と通謀し、残留者をもって暫編特務団を編成するため、各部隊長、各兵団高級参謀に指示して、一、残留は祖国復興に役立つ、二、特務団編成と同時に復員輸送が再開する、三、戦犯釈放が実現するなどと強調、部下将兵に対し特務団参加を積極的に勧めたということであります。
当時、第三十二軍の高級参謀でありました八原博通という方の書いた「沖繩決戦」という本があります。これは映画にもなって、ごらんになっておられるならば、当時の模様がわかるのじゃないかとも思うのであります。この三十二軍のスタッフは、ほとんど航空関係の参謀が主であったわけです。当時、陸軍の飛行場づくりの神様と言われるような方も、そのスタッフの中に入っておったわけです。
○柏井説明員 この方は三名ございまして、先ほど御指摘がございました三十二軍の高級参謀の八原博通さん、三十二軍の参謀の釜井耕輝さん、それから三十二軍経理部付の主計中尉田中護利さん、この三名の方の資料がついております。
ところが、その当時の参謀長から命ぜられた神参謀も釜井参謀も八原参謀、これは高級参謀なんです。その当時の大佐です。この証言も、戦争が済んだら地主にお返しすることを約束しており、厚生省の当時の援護局長がまた認めているわけなんです。これはその当時金を払っていないというのが現実なんですよ。
八原参謀、これは高級参謀です。長勇参謀長のもとで八原という高級参謀、大佐です、この人がはっきりまた同じようなことを言っているのですよ。
独立混成第三旅団の残留者が集結したのは山西省の原平鎮でありましたが、当時残留者の長であった元高級参謀今村方策並びに当時の旅団長であった少将山田三郎、この二人の人は、むしろ残留者が復員者と一緒におることによって、残留の意思を翻意して帰国するようになっては困る、だから残留を決心した者は早く帰国者から離して、翻意しないように別居さした。これは私だけでなく、多くの人がそのような事実を知っております。
それから第二点は、三人の参考人が言われたように、各高級参謀あるいは軍の指揮命令系統に所属されておられる方々が、閻錫山軍に残留する、残っておられたということが事実であるかどうか、この点をまずお聞きをいたしたいと思います。
それから高級参謀等も残ったということでございますが、これは具体的に申し上げますと、今村参謀は残られました。それから大同の高級参謀も残られました。それから兵団長は塁兵団の元泉少将が残られました。これは残っておられましたが、たとえば百十四師団の参謀で、三人の参考人が言われました太田黒参謀は帰っております。
それから独混三旅団、ここの高級参謀と申しますか、この方が今村方策大佐、この方は十総隊、当時日軍の部隊、これを最後まで指揮しておつたところの人です。先ほど河本大作という方が自殺されたと言われましたが、この方ではなくて、今村方策という方が太原解放で捕虜となると同時に毒で自殺しました。このうちで澄田中将、山岡中将、それから三浦中将、この方々は太原の解放される直前に前後して日本に帰つております。
一中隊長東登太郎中尉は各中隊を宣伝に歩き廻り、司令部残留のための留用室ができ参謀部電報班は留用室と改め、高級参謀今村方策大佐の下、班長北村大尉、班員野崎中尉以下軍司令部の命令に基く旅団下の編成及び軍隊典範令規約の制定及び状況調査の報告の作成を行なつた。私はその中で助手をして勤務していた。昭和二十年五月華北交通が軍属の宣誓式を行なつて後、将一一四師団直轄へ号装甲列車機関手として軍命で派遣された。
この人が何とかしてこの柿副君を救おう、こうしたところから、当時の高級参謀であるところの岩田参謀、この人のところにお願いに行つたところ、ところが岩田参謀がその場でもつて何と答えたかと言いますと、エビとタイはどちらが大切であるか、このように言われたそうです。だからこうしたところから見まして、柿副君はそうした戦犯の犠牲になつたということが言えるのじやないかと私は考えるわけです。